夏の終わりのアテネで

空港からアテネ市内の自宅に向かう車のなかで、さっそく彼はぶちまけはじめた。この国の状態がどれほどひどいかについてだ。

アテネ市内の中心地では閉鎖する店が後を絶たない。新しくオープンするのは質屋ぐらいだ。多くの人が、家族の貴金属や金歯を質に入れにくる。

税収を減らすまいと、役人たちは次々と新しい税金を発明する。「全くバカげてる」と言いながら、私が読めるはずもないギリシャ語の書類を彼は山ほど見せてくれた。

ギリシャの人口は約1千万人。アテネはギリシャ国民の約半分が住む大都市だ。私の好きな街でもある。親しい友人もいる。

2011年1月にも私はアテネを訪れた。その後もギリシャの状況は悪化し続けている。いま国民の約1/3の人に仕事がない。

1.

アテネの夜は遅い。午後11時近くにようやく出かけて、そこから長い夜が始まる。

中心地のシンタグマ駅を通りかかると、火曜の夜だというのに、駅からたくさんの人があふれ出てくる。

行き交う人びとの表情は暗くはない。そのことを友人に言うと、「この時間に暗くなってる必要はないだろ。24時間ふさぎこむことなんてできないんだから」。

実にギリシャ人らしい答えだ。

危機はどこに行ってしまったのかと思うほど、中心地のバーやレストランは混んでいる。

アクロポリスがすぐ目の前に浮かび上がるルーフトップバーは超満員だ。

アクロポリスの北西に位置するガジ地区 (Gazi) には、おびただしい数のバーが密集する。

その地区自体がひとつの巨大なバーといってもいいくらいだ。

週末にのぞいてみると、バーに入りきれない学生たちが大量に外にあふれ出て、案の定通りをまともに歩くことさえできない。

それでも、以前とは明らかに人の数が減っている。

飲食業はギリシャの主要産業のひとつだが、最近は店をたたむところもあるという。

2.

アテネ市内は警察が24時間体制で巡回を続けている。暴動を鎮圧するためだ。

市内中心部のエクサルヒア地区 (Exarchia) には大学があり、小径を埋めつくすカフェに学生や左翼がたむろする地域だ。当然デモが多い。

2008年12月には、15歳の少年が警官に射殺されたことをきっかけとして、暴動がギリシャ全土に広がった。

少年が射殺されたのは、このエクサルヒア地区の一角だ。

経済状況が悪化するにつれて、昨年はとくに大きな暴動やデモが相次ぎ、アテネ市内全体が何日もの間催涙ガスで覆われたという。

暴動はもはやアテネの代名詞のようなものだ。だが夏の間は暴動はない。

暴動を起こすには、アテネの夏の太陽は過酷すぎる。

アテネの街を歩くかぎり、外国人の私の目には状況はそれほどひどくないようにみえる。

そう友人に言うと、夏の間は観光客もいるし、人も外に出るから、そんなに悪くは見えないのだろうという。

別の知人に同じことを言ったら、「状況はどうであっても、この夏の天候さえあればとりあえずハッピーだよ」と返ってきた。

ここはギリシャだ。どうやら夏の間は、危機もひと休みらしい。

3.

アテネでは、有名外資企業のオフィスは市内の中心地から離れた郊外にある。

レオフォロス・キフィシアス通り (Leoforos Kifissias) を車で北に30分ほど走ると、プライスウォーターハウスやマイクロソフトが通り沿いにオフィスを構えている。

海外で教育を受けた人たちやエリート層は、郊外にある有名企業で働き、郊外に住むことを選ぶ。彼らはアテネの中心地には行かない。

都市の中心部への回帰が進んでいる米国とは対照的だ。

アテネから車で1時間ほどの郊外には、大邸宅が並ぶ地域がいくつかある。政治家や実業家が住み、私立の小中学校もある。ちょっとした「ゲーテッド・コミュニティ」だ。

そこに住む人びとのため、郊外には小さな街もある。キフィシア (Kifissia) はそうした街のひとつだ。

歩道があり、ブランドもののブティックから映画館まで、さまざまな店がそろっている。

こうした裕福な郊外には驚くほど緑が多い。強烈な太陽と乾燥したアテネの気候を考えると、不自然なほどの緑の量だ。

「郊外=緑」というのは、国に関係なく普遍的な図式なのだろうか。

4.

実は、アテネでも郊外から中心部への人口移動は起こりつつあった。

2004年のオリンピックにむけて、アテネの中心地で住居棟の建設が始まり、そこに移り住む若い人たちもいた。

しかし、オリンピック後の危機によってすべては変わった。人口移動は凍結し、中心地へ移った人たちも郊外へと戻った。中心地にはホームレスやジャンキーが増えていった。

ガジ地区はバーだけの街ではない。工場を改造したアートスペースなど、いくつもの面白い試みが展開されている。10数年前のニューヨークのブルックリンを連想させるところがある。

そのガジ地区からピレオス通り (Pireos) を西に少し行くと、かつて軽工業が集中していた地区が隣接している。そこには工場を改造したロフトがいくつもある。

そのロフトにアーチストたちが移り住みはじめていたが、危機とともにやはり頓挫した。

ジェントリフィケーションは起こるべくして起こり、一度始まると後戻りできないという人もいる。

だが、アテネではジェントリフィケーションを計画さえしたというのに、それは結局起こらなかった。

「昔の荒れた街を懐かしむ人はアテネに来ればいい。ここは永遠にジェントリファイされないよ」と自嘲気味に友人は言う。

5.

外国で教育を受け、英語を話せる人たちは、ギリシャを離れている。

ギリシャでは、高等教育を受けた人の方が仕事をがない。学んだ知識やスキルを利用できる仕事がないからだ。

そのため、教育を受けるインセンティブもない。教育を受けない方が仕事にありつける可能性が高い。

私の友人の友人は、米国の大学で数学の博士号を取得した。ギリシャに戻った彼は、ほうれん草パイを売っている。

博士がエラくて、ほうれん草パイを売る仕事がダメだといいたいのではない。個人の資質や指向性と仕事がマッチしないのが問題だ。

職がなければ自分で商売を始めればいいと思うかもしれないが、官僚制のはびこるこの国では、新しいことを始めるのはほぼ不可能だ。

仕事を探すにしろ、新しいことを自分で始めるにしろ、さっさと国外に出た方がいいということになる。そして、才能にめぐまれた人から国外に流れる。

私の友人も、夫婦ともに米国で高等教育を受けている。

2011年に彼らを訪れたときには、彼らも南米に移住することを考えていたが、ギリシャでプロジェクトの仕事が入ったため踏みとどまったようだ。

アテネから国内のほかの都市への人口流出も観察されている。初めての現象だという。

6.

市内の中心部に新たに整備されたペディオン・アレオス公園 (Pedion Areos) の北に位置するキプセリ地区 (Kipseli) 。

アテネの中心地の一部だが、ここに足を踏み入れる外部の人は少ない。ここはアテネで最も興味深いところだ。

キプセリ地区に入っていくと、うつろな目つきをした男たちが道ばたにたくさん座りこんでいるのが目に入る。

なにやら不平不満を叫びながら歩いている老人もいる。そして、アテネでは珍しい黒人も多く行き交う。

一体だれが利用するのかと思わずにいられない朽ち果てたホテルがあれば、放棄された建物もたくさんある。その多くは「スクオッター」が占拠している。

ここでは写真は撮らない方がいいと言われたので、写真はいっさい撮っていない。

不穏な空気とは対照的に、キプセリ地区には美しい建物が多い。ドイツで学んだ建築家たちが1930年代に建てた、バウハウスの建物がいくつも残されている。

1950年代には、キプセリ地区はアテネで最も洗練された場所だった。

多くの人が夜な夜なここに遊びにやってきた。最も裕福な人たちが住む場所でもあった。

今日も残されている美しい建物たちがそのことを物語っている。

1990年代には裕福な住民は郊外に去り、移民が移り住んだ。移民が住む地域は、活気があり、面白い場所になることが多い。

しかし危機の訪れとともに移民の仕事がなくなり、治安が悪化した。

キプセリ地区で働く警官は、命を落とす可能性がある。公務員の給与も大幅に削減された。月600ユーロの給与のために、命を失いかねない仕事に就く者はいない。

その結果、警察はキプセリ地区に警官を送ることをやめた。警察からも見捨てられた地区だ。

7.

危機が深刻化し、政府の無策ぶりが明らかになると、自生的な経済が生まれる。それはしばしば互助的な性格のものだ。

キプセリ地区では、不要なモノをもちよって、自分が必要としている別のモノと交換する市場が形成されている。

2001年に経済危機に陥ったアルゼンチンで、従来の市場や貨幣を媒介しない、物々交換や地域通貨が広く普及したことは記憶に新しい。それと同じことが、ここでも起こっている。

住民が空地につくった「コミュニティ・ガーデン」もある。

コミュニティ・ガーデンが住民の自主と抵抗の場所として機能している、ニューヨークのロウワー・イースト・サイドを想起させる。

そして、こうした地区にはアートがつきものだ。

キプセリ地区にはいくつかの映画館があるが、なかでも「トリアノン (Trianon)」と「イリオン (Ilion)」は、映画にただならない情熱をもつ1人のオーナーが経営している。

この2つの映画館には、アテネ中から「シネフィル」が集まってくる。

住居棟を改造したギャラリーや劇場もある。劇場ではベルトルト・ブレヒトが上演されているようだった。

キプセリ地区の劣悪な経済状況にもかかわらず、あるいは、そうした状況だからこそ、アートはいっそう盛んになる。

キプセリ地区はアナーキストと左翼が多い地区でもある。友人のギリシャ共産党員はこの地区で育った。彼の思想形成と無関係ではないと私は思っている。

案内してくれた建築家の友人は、キプセリ地区にある建物を一棟買い取って、自分でリノベーションすることを考えているそうだ。

「ここには大きなポテンシャルがあり、インフラも整っている。あとは誰かが動かし始めるだけだ」と彼女はいう。

もちろん、この地区に生まれているのは、そうした「オルタナティブ」な動きだけではない。

警察が見放したこの地区の住民を懐柔しようとする者もいる。ネオ・ファシズムのメンバーが、地区を丸め込もうとしている。

ギリシャではネオナチ党が大躍進し、7%の支持率を得ているという。危機にポピュリズムが台頭するのは今も昔も変わらない。

8.

海洋考古学を研究している知人によると、夏の盛りになると、ギリシャの海はとても明るいブルーになるという。そして夏が終わると、海の色はどんどん暗く濃くなっていく。

9月初めに、私は友人たちとアテネ沖の島に泳ぎに行った。

ギリシャの太陽はとにかく強く、9月いっぱい、年によっては10月初めまで泳げる。

9月の海は驚くほど暖かかった。しかし、海の色はもう秋の訪れを告げていると、ギリシャの海を知りつくす彼は教えてくれた。

アテネの長い夏が終わる。

この冬は半世紀ぶりの厳しい冬になるとギリシャ人たちは言う。もちろん経済的な意味でだ。

ギリシャのユーロ脱退は必至とみる外資のビジネスは、着々とギリシャ脱出の計画を進めていると聞く。シティバンクや大手コンサルティング会社はすでにギリシャから撤退している。

「世の中ではグローバリゼーションといわれているのに、この国は世界から隔離されようとしている」と友人はこぼした。

アテネを去る前日に中心地をもう一度歩いてみると、行き交う人びとの表情は、夏から冬に切り替わりつつあるようにもみえた。