オープンで多様な都市?

都市の経験というべきものがあるとすれば、それは早朝のチャイナタウンで新聞を読む中国人たちにまぎれてお粥をすすることだったり、国際急行の異名をもつクイーンズを走り抜ける地下鉄7番線の車内のあちこちで知らない外国語を耳にすることになるのだろう。信号を待つ間に見知らぬ人とここ最近の荒天について愚痴を交わし、信号が変われば二度と会うことがないのも都市の日常に違いない。

そしてもちろん歩くこと。目的もなく、目指す場所などあるわけでもなくただ歩くこと。どこにでも、どこまででも、自分の足と直観を頼りに歩くことができるのが、ニューヨークの何よりの楽しみなのだ。歩くことでこの都市が刻々と変わりゆくのがよくわかる。

この十数年でニューヨークは大きく変わった。変わることが都市だとすれば、それは少しもおかしなことではないのかもしれない。ニューヨークで変わらないことがあるとすれば、それはこの都市が変わり続けることだけなのだとさえ言われるのだから。

ユニオン・スクエアの名物コーヒー・ショップが店をたたみ、通りのあらゆる片隅が忙しなく短命のポップアップに姿を変え続けることは変化には違いないものの、そうした移り変わりとは違う次元で何かが異なるステージにすべり込み、後戻りできなくなったような感覚がずっとつきまとっていた。それが何なのか少しわかったような気がしたのは、クリストフ・ギリュイの本を読んだときだった。

1.

パリに住むジオグラファーのギリュイは、グローバル化がもたらす利害関係を軸として、パリやリヨンなどの繁栄するフランスの大都市と、それ以外の衰退する「周縁のフランス」の間の落差を示したことで知られている。彼が提示した周縁のフランスはフランス国内で大きな議論を呼び、最近ではイエロー・ヴェストを予見したとして、英語圏でも注目を集め始めている。なるほどギリュイが言及する周縁には、米国の周縁にも、英国の周縁にも共通するところが少なくないというわけなのだろう。

そのギリュイの主張の中で特に興味を惹かれたのは、パリのような大都市は城砦を築きつつあるというもので、その城砦を築く上で、オープンで多様という、城塞とは本来矛盾するようなスローガンが利用されているという点だ。

ギリュイによれば、今日のフランスの分断はもはや従来の資本家やエリートとの間にはなく、そこで大きな役割をはたしているのは大都市に住む新しい上流階級なのだという。高等教育を受けた彼らはテクノロジー、メディア、教育といった分野で高給の仕事に就いていることが多い。

デイヴィッド・ブルックスが描いた、かつては相容れることなど考えられず、相反する存在だったブルジョワとボヘミアンが、最近では外見だけでなくその指向性や価値観においても似通っていて、区別することが難しいばかりか、今や両者が一体化しているという「ボヘミアン・ブルジョワジー (=ボボ)」に着想を得て、ギリュイはパリにボボを見出す。

元労働者のネイバーフッドに住むことを好んで選び、昔のプロレタリアの名残を残すバーでハングアウトするボボは、進歩主義的な価値観を信じ、左派の政治家を支持する。良心的な教育のある上流階級であり、環境問題など抗議運動に熱心なのはこうしたボボなのだ。

グローバル化の恩恵を受ける立場にある彼らは、市場を熱心に支持する。オープンかつ多様であることは彼らにとって不可欠なこと。なにしろ大都市には低賃金のサービス業を引き受ける移民が必要なのだ。共存を主張するものの、自分の子供はあらゆる手を尽くして移民が多い公立の学校に入ることを防ぎ、労働者と同じ建物に一緒に住むことはない。ボボは金融を敵視し、強く反対する。それは自分の金融 (懐具合) が心配ないからこそできること。

多様性と多元文化主義を謳う大都市こそがフランスの未来であり、それが唯一の途なのだと主張する彼らは、市場経済の利点を存分に享受しつつ、そこから派生しうる階級間の問題を直視しないでいるために、オープンで多様というナラティヴを必要とする。そうすることで、その特権的な立場を再生産することが可能になるというわけだ。

ギリュイは「ジェントリファイアー」という言葉を避ける。それがいわゆるジェントリフィケーションとは違う階級の問題であることを強調するためだ。そしてボボが「ブルジョワ」と表現されたことに強く反発したその事実こそが、ブルジョワとボヘミアンの区別を曖昧にし、その社会的地位を隠そうとする彼らの意図を明らかにしたとギリュイは主張する。大都市の城塞は偶然現れたのではなく、ここ三十年かけて周到に準備されたものなのだ。

2.

その一方で、グローバル化の恩恵を享受することのない人たちもいる。大都市以外に住む労働者が概ねそれに相当する。

グローバル化が進行することで、経済の主要な機能はグローバル都市と呼ばれる一部の大都市に集中する。すでに数十年観察されている顕著な傾向であり、それは近年一層強化されている。大都市はグローバル経済に完全に組み込まれているのだから、オープンでなければやっていけないのだ。

進歩主義的に聞こえるオープンで多様というナラティヴがフランスの上位1%に歓迎され、グローバル化を進めるエリート層のアジェンダに欠かせないものになった。そのことが大都市の城砦を肥大化させ、それ以外のフランスとの分断を深めているならば、それに反対する動きが出てくることになる。

新しい上流階級の手びきによる経済的リベラリズムと文化的リベラリズムの連合を目の当たりにした労働者は、左派と袂を分かつことになる。左派であれ右派であれ政治家は拒絶し、代表制に背を向ける。上流階級に与するだけのメディアは信じない。ギリュイがイエロー・ヴェストを予見したと言われる所以だ。それは知識層ではない者たちによる初めての抗議運動になった。

今日の労働者を結びつけるものはイデオロギーではなく、失業、保障のない雇用、所得減、福祉国家の衰退という現実でしかない。事実、色々なところで、左派か右派という枠組みで考えることが無意味なばかりか、混乱を招くだけだと耳にするようになった。

隣の英国では、2019年12月の選挙で、労働党がロンドンとオックスブリッジの政党になったことがはっきりした。伝統的には労働者と都市部が支持基盤だったものの、労働者が労働党から離れてゆき、労働党が労働者のほとんどいない大都市の政党、高学歴のエリートのための政党であることが明らかにされた。

3.

ギリュイに批判がないわけではない。グローバル化をはじめとする諸概念が明確に定義されることがなく、厳密な分析というよりもむしろマニフェストであり、その議論は具体的な政策を提示するものではなく、論争を焚きつけるためのものではないかという指摘はしばしば目にする。

それでもグローバル都市であるニューヨークに住み、進歩主義的な価値観を刷り込まれた者にとって耳が痛いことばかりのギリュイの主張は、当たり前とされていることをもう一度問い直してみるきっかけを与えてくれる。オープンで多様とはどういうことなのか、尤もらしく聞こえる言語の下で、実際にはどんなプログラムが走っているのだろう。

ギリュイの議論には、少し前にもてはやされた北米のアーバニストたちのそれとパラレルなところが少なくない。たとえば「ボボ」を「クリエイティヴ・クラス」に差し替えてみたらどうだろう。それでも概ね彼の議論はあてはまるように思える。

知識経済へのシフトを強調し、変化する経済の性質に適応するといえば聞こえはいいものの、それが新しい上流階級をかき集め、ホットなビジネスに相応しい生産的な、より望ましい住民に入れ替えることならば、そこに横たわるのは厳然としたエリート主義でしかなく、クリエイティヴというイノセントな言葉は、たちまち都市の中心に城塞を築くための政治的な方便に見えてくる。

経済を牽引するのが才能だとすれば、そこで都市がすべきことはその新しい上流階級向けにインセンティヴや誘引を提供することになる。そして都市には公園などのアメニティが必要なのだと唱える。いくらか飛躍があるようにみえるこの論法に、確かな因果関係や検証が伴ったことはないのだが、とにもかくにも世界の多くの都市はこれにとびつき、そのフォーミュラに忠実に従った。

観光客であれ新しい上流階級であれ、お客様を集めることに血道をあげる各都市はマーケティング合戦に終始するばかりで、出来合いのメニューの中から手っ取り早く選び、安く上げるには重宝なその術は、一部でファースト・フードよろしくファースト・アーバン・ポリシーと称されたりもした。そして何より即席アーバニズムの陰に追いやることで、根本的な改革には目をそらしたままでいられる。

4.

ギリュイの主張は下手するとフランス国民戦線のスローガンのように響くことさえあり (実際マリーヌ・ル・ペンはギリュイの「周縁のフランス」を熱心に読んだと伝えられる)、彼やイエロー・ヴェストをポピュリズムと片付けるのは簡単だが、それなら彼らを内向きとフレームする進歩主義的で聞こえのいい言語には、出世の階段を上ることや保身といった、気が滅入るほど内向きな利益のためのジェスチャー以上のものがあると言えるだろうか。それはフランスのことではない。

多様性と言いつつ、コンフリクトなど存在するはずもないかのようなシームレスで表情のないその世界観は、その言語を共有する者の間でのみ流通し、それに同調する限りにおいてオープンと認められ、自分と同じように考え、行動しない人は後進的と片付けることで安心する。コスモポリタニズムとはおよそかけ離れた似た者同士の仲良しクラブを、オープンで多様と呼ぶこの奇妙な状況はいつ生まれたのだろう。

都市が投資の対象として再発見され、多くのマネーが向かったことが都市の時代だったならば、金融危機に続いたグローバルなゼロ金利と手をとりあい、アーバニストたちが都合よく提示したいかにも楽天的であっけらかんとしたピクチャーが多くの政治家に歓迎されたことは注目に値する。どこまで真に受けたのかは別にして、彼らが抱えるアジェンダを達成するには役に立ったに違いない。

5.

2010年代にかけて都市の人口が大きく成長を続けた米国では、数年前からニューヨークやシカゴなど大都市の人口が減少に転じた。多少割高であってもアメニティに恵まれた都市の中心部に住むと言われたミレニアル世代向けのアパートを、デベロパーはニューヨークの郊外に建て始めている。販売価格が記録を更新し続けたニューヨークのコンドミニアムは、その建設ラッシュがまだ落ち着いてもいないというのに、完成した物件の多くが売れ残り、隠し在庫が増えている。

面白いものを求める人たちが、その題材となる人や対象を求めて都市の外へと向かい始めたのはもうずいぶん前のこと。エッジを装う中央が都市の隅々を埋め尽くしているとしたら、都市がどんどん息苦しいだけの場所になってきているのも無理はない。一方でグーグルやフェイスブックなどテクノロジー大企業によるニューヨークでの雇用意欲は一層強く、ハドソン・ヤーズという名の城塞の周辺でオフィスを拡張中だ。マネーはまだまだ回るのだろう。

あちこちにゴミを散らかした2010年代の都市の時代、そして即席アーバニズムの一時的な流行は、幸い思った以上に短命に終わってくれそうだ。都市はどこに向かっているのだろう。そしてこれからどのように都市を書き換え、再プログラム化できるだろう。

まずは窓を開けて外気を入れ、外に出てみよう。外は冷たい風が吹いていて、コントロールされた環境と違って楽ではないことが少なくない。それでも外に出ることこそが都市なのだから、それは喜んで受け容れるべきことなのだ。