アテネ便欠航

マルセイユを出た船は地中海を東へと航行し、やがてペロポネソス半島からコリントス運河を経由して、アテネの西のピレウス港へと到着する。1933年7月のパトリスII号にはアルヴァ・アールトやル・コルビュジエたちが乗りこみ、船上でCIAM第4回会議が行われた。世界を変えることができる。その大きな期待で船上は高揚感に満ちていたにちがいない。その成果物となったアテネ憲章は、その後長期にわたり、欧州とアメリカの都市に多大な影響を与えることになるだろう。

その船に同乗し、船上の一行を記録したモホリ=ナジ・ラースローによる短いフィルムは、2017年の初夏にアテネ国立技術大学の一室で、国際美術展ドクメンタの一部として繰り返し上映されていた。 第14回目のドクメンタは「アテネに学ぶ」という仮題の下、カッセルとアテネの2都市での開催となり、4月にはアテネで一足先に幕を開けた。

アテネ国立技術大学のキャンパスがあるエクサルヒアは、アテネの中心に近いネイバーフッドだ。アカデミア通りから東にかけて続く緩やかな傾斜の路地めいた通りには書店やカフェがひしめき合い、建物という建物はくまなくグラフィティで埋め尽くされている。深夜も行き来する人たちは絶えず、道端で話しこむ学生たちは多い。2008年12月には、エクサルヒアの路上で15歳の少年が警官に射殺されたことをきっかけとして、ギリシャ全土に暴動が広がった。1973年11月には、当時の軍事政権の戦車がアテネ国立技術大学の門を破壊してキャンパスに突入し、その結果多くの死者を出したことは、ギリシャの歴史に容易には癒えることのない痕をまたひとつ残すことになった。2010年から続く経済危機の出口が見えないアテネでは、暴動や抗議運動は少なくなったとはいえ、警官隊との小競り合いは今も頻繁に起きている。そのたびに通りは封鎖され、バスや自動車はルートを変えて走ることになる。

アテネの街はアクロポリスをとり囲むようにして広がっている。市内のどこからでもアクロポリスは視界に入るようになっている。中心地を歩くと、”For Sale”と英語で広告を出しているアパートが目につく。多くの外国人がアテネの不動産に関心を寄せていて、物件を見るために世界中からアテネにやってくる。経済危機によって不動産価格が割安になったことも理由だが、EUであるギリシャでの居住権を手に入れることが目当ての人が多く、トルコや中国からの関心は特に強い。政情が不安定になりうる国に住む人たちは、いざという時のための準備にぬかりがない。もちろん彼らは不動産を買ってもそこに住みはしない。イラク人の医者がアテネにアパートを買い、その買ったアパートは第三者に貸す。そしてイラクの政情が不安定化したらアテネに逃れてくる。いざという時のためのバックアップ・プランだ。一方ギリシャ人の多くは国外へと離れている。若くて多少でも自分の才能を信じる者なら国外へと出ていくだろう。なにしろギリシャはEUなのだ。ドイツやフランスなど、他のEU国で働くことに制約はない。高等教育の学位を取得しても、ギリシャにはそのスキルを活かせる仕事は少ない。アメリカの大学で数学の博士号を取得した者が、アテネでほうれん草のパイを売っているといった類の話はよく耳にする。パイの売上予測に高度な数学を利用しているのかどうかは定かではない。アメリカではSTEMの学位取得者が足りない。ギリシャには多くのSTEM学位を有する者がいるものの、そのスキルを必要とする仕事が足りない。2011年時点で68万人のギリシャ人が国外で暮らしていると考えられている。そのうち14万人は高度なスキルを身につけた人たちだ。

経済危機下のアテネでドクメンタが開催されることについては、二都市開催が発表された時から意見が大きく分かれていた。 窮乏する都市を見世物にする困窮観光だと非難され、ドクメンタの主要会場のひとつだったアテネ美術学校には、ドクメンタ開催に反対するグラフィティがあちこちに描かれていた。同じく主要会場のひとつのアテネ国立現代美術館(EMST)の最上階のテラスから道を挟んで向かいに立つ廃業したホテルの外壁には、「ようこそ、存分に廃墟を楽しめばいいさ」とメッセージが書かれていた。ドクメンタのパーティーが行われたそのテラスからは、向かいの廃墟と化したホテルの後景に、やはり廃墟には違いないアクロポリスが視界に入る。

ギリシャでは危機が常態化しつつある。2004年のアテネ・オリンピックにかけて続いたバブル期には、連日多くの人たちがつめかけ、競うように買い物をしたアテネ中心地のモールから、人もテナントのビジネスも消えた。アンゲラ・メルケル首相のドイツ主導によるEUが緊縮財政を強いた当初、ギリシャ人は1日に60ユーロしか銀行から現金を引き出すことができなかった(2017年9月からは月に1800ユーロになっている)。ギリシャを観光で訪れるEU国の人たちは、もちろんいくらでも引き出すことができる。EUと債務返済の交渉にあたるため、2015年にゲーム理論家から転じてアレクシス・ツィプラス首相の下で財務相を務めたヤニス・ヴァルファキスに言わせれば、窮乏する国のATMを止めるボタンがあるのだから、誰がパンター戦車など必要とするものか。国内のビジネス取引では、税金をのがれるために、インボイスを出さなくてよければ価格を割り引く慣習が広がっている。その結果名目上の経済は一層縮小する。カフェはアテネの生活に欠かせない。多くの人がカフェに座ってビジネスの交渉を行い、ゴシップをとばす。アテネでは外で時間を過ごすことが生活の一部だ。夜になるとレストランやバーの歩道まで張り出した席で深夜まで話に花を咲かせる。とはいえ危機が長引き、そして深化するにつれて、人びとが夜外に出る頻度は減り、外で使う金額はあきらかに減っている。

それに逆行するように、ギリシャを訪れる観光客の数は増えている。ギリシャは他のEU国と比べて物価が安い。同じ1ユーロでずっと多くのモノやサービスを手に入れることができる。シリア、トルコ、イスラエル、エジプトなど、近隣の国々が観光で訪れることができる状態にないことも、ギリシャ観光を後押ししている。糊口を凌ぐために観光客に部屋を熱心に貸し出すアテネの住民は多い。airbnb向けのアパートへの改修は、アテネで唯一堅調なビジネスだといわれている。airbnbの部屋が完成し、そこに観光客が出入りするようになると、その一階にはコーヒーショップがオープンし、周辺にはコインランドリーや食品店がたちまち現れて、ちょっとした経済圏が自生する。アクロポリスの麓の坂にはりつくように拡がるプラカは歴史の古いネイバーフッドであり、アテネ観光の中心地でもある。ある調査によると、そのプラカは欧州で最も高価なairbnbの地区だという。より高く部屋を貸すことができる観光客を優先するため、市内にアパートを借りることができない学生は、市のはずれに部屋を借りて市内の学校に通っている。

アテネの街はどこか埃っぽい。白いスニーカーを履いているとすぐに汚れてしまう。アテネの街は不潔ではない。それともアフリカから季節風に乗って運ばれてくる砂のせいなのかもしれない。ドクメンタの展示はアテネの市内外に拡散しているため、多くの様々なネイバーフッドに足を運ぶ必要があった。アテネの中心地にあるかつてのビール工場を再利用したEMSTやベナキ美術館、アテネ音楽院、そしてアテネからピレウスへと導く、古代には壁で守られていた通り沿いにあるアテネ美術学校には、国際的なアーチストの作品が多くまとめて展示されていたが、それ以外の様々な施設やネイバーフッドにも展示は拡がっていた。そのためオープニング時には、プレスに非効率だという批判が出たといわれる。実際、その展示の圧倒的なスケールに加えて、全く役に立たない会場マップと格闘することを強いられ、屋外の作品の場所を示す標識らしきものがほとんど存在しないとなれば、展示作品にたどりつくまでがひと仕事ということになる。まして夏のアテネの過酷な太陽の下では大変な労力を必要とする。要領よく楽に観て回れる手段は準備されていない。

アクロポリスの麓からほど近く、両脇にオリーブの木が植樹されたギリシャ的なランドスケープが導くフィロパッポウの丘を上ったところにも作品は展示されていた。フィロパッポウの丘は20世紀半ばに建築家のデミトリス・ピキオニスによって再開発され、やはり彼の手によるパヴィリオンが作品の展示会場として利用されていた。ケネス・フランプトンも言及したそのパヴィリオンはここ10年近く閉鎖されていたが、ドクメンタの展示会場として一般に開放されることになった。ギリシャではこうした場所を利用するには、政府の許可を得るだけで数年を要する。パヴィリオンとは反対の方角に径なき径を上がっていくと、その頂には大理石の難民テントが、さほど遠くはない対角線上の丘の上に聳えるアクロポリスを臨むように設置されているのを目にすることになる。

ギリシャは1990年代に、移民を送り出す国から、移民を迎え入れるホスト国へと転じた。バルカンや東欧からの多くの移民の流入を経て、2000年代以降は近東やアフリカ諸国から多くの難民を多く受け入れている。2004年にはギリシャにおける移民の比率は10%に達し、その多くはアテネをはじめとする都市部に集中している。

ケラミコスとガジはアクロポリスの北東に位置する中心部のネイバーフッドだ。1990年代にはそのガジやケラミコスから多くのギリシャ人が去って行き、郊外へと向かった。入れ替わるようにして移民が移り住み、間もなくバーやレストランがオープンするようになった。特にガジはゲイ・バーが集まるアテネ随一のゲイ・ヴィレッジとして知られるようになった。多くの人が去ったことでガジやケラミコスの不動産には空きが増え、相場が大きく下がったため、アーチストなど一部のギリシャ人たちが再びガジに戻りつつあったが、経済危機とともにこのプロセスは止まった。政府機関もアテネの中心部から郊外への移転が続いた。ケラミコスにあった社会保障部門も移転し、そのオフィスが入っていた建物は今日まで空室の状態が続いている。もっとも、ギリシャに社会保障といえるものはもはや存在しないに等しいのだから、社会保障のオフィスはなくてもいいのかもしれない。今日でも印刷など小規模な製造業がわずかに残っているケラミコスのアヴディ広場では、ナチスによって破壊されたローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトのためのミース・ファン・デル・ローエによるモニュメントへのトリビュートの作品が展示された。ケラミコスのスモール・ビジネスもより低廉な労働力を求めて、旧ユーゴスラビアの国々への移転が進んでいる。

ケラミコスには、控え目な規模のチャイナタウンと背中合わせに娼館が並び、昼間からジャンキーたちが歩道にたむろしている。しかしそのすぐ隣のブロックにはモダンな新しいレストランがオープンしていたりもする。リゾート島の開発で成功したデベロパーのイアソナス・ツァコナスがその開発モデルをケラミコスで再現しようと企み、100人ほどの投資家と共同で近隣の土地を買い上げたうえで開発に取り組んだものの頓挫した。ジェントリフィケーションは起こるべくして起こるのだという人もいるが、アテネではそうはいかないようだ。その結果、今日でもアテネの中心地には、移民を含む多種多様な人たちが住んでいる。第14回目のドクメンタのディレクターを務めたアダム・シムジックによれば、アテネは欧州で最も面白い都市のひとつだという。実際、アテネは面白い。世界の都市が追いかけているゲームのルールに少しも従っていない。

近年はシリアやアフリカを逃れる難民たちの姿がアテネでも後を絶たない。彼らが目指す最終目的地はギリシャではなく北の欧州だが、トルコとの国境を越えて、またボートで海を渡り、最も南に位置するEU国のギリシャにまずはやってくる。数年前にはアテネの中心地にも難民が多くいたが、最近は郊外の廃業したホテルなどで暮らしていることが多い。難民はある場所に突然現れて、姿を消したかと思うとまた別の場所に突如姿を現す。アテネの北のネイバーフッドのヴィクトリアにも地下鉄の駅の周りにテント群が現れた時期があった。ヴィクトリアは移民が多く住むネイバーフッドだ。移民向けの書店などもある。そこではヴィクトリア広場プロジェクトと称するコミュニティ・プランニングのプロジェクトが、ドクメンタの作品のひとつとして進められていた。そのネイバーフッドにどんな人が住んでいて、そこに存在する資源をいかにして利用して、よりインクルーシヴでサステイナブルなネイバーフッドをつくることができるのか。住民や小売店などのビジネスを巻きこみ、ワークショップや話し合いがドクメンタが終わった後も続いている。

ドクメンタの会場はピレウスにも拡がっていた。魚市場や近隣国からの輸入品の卸問屋が軒を連ねるピレウスは、雑多な人が行き交う港町だ。アテネから6km西に位置するその港では、多くの客船が地中海のどこからかやってきては乗客を降ろし、そしてエーゲ海の島々へと多くの観光客を慌ただしく連れてゆく。ディッキー・グリーンリーフを殺害してイタリアを逃れたトム・リプリーもこのピレウスに降り立った。妻のエロイーズとフランスのフォンテーヌブローに落ち着くずっと前のことだ。難民テントの群れが港を埋めて、一帯が難民キャンプと化したこともあったが、島に向かう船に乗り込む観光客にテントを見せたくない政府が、他の場所へと強制的に移動させた。シティ・プランニングの父とされるヒッポダモスが紀元前5世紀に敷いたグリッドは、今日もピレウスに残っている。ヒッポダモスは今日のトルコのミレトス出身だった。港には様々な人たちがたどり着き、そして去ってゆく。ドクメンタの展示は港近くのピレウス考古学博物館のほかに、ピレウスの北に位置するコキニアにも設けられていた。コキニアは1930年代に小アジアから多くの難民がおしよせ、難民が自分たちで建てた住居がいまでも残っている。倉庫が立ち並ぶ軽工業の拠点として、今日もアルバニアやパキスタンなどからの移民が多い。難民や移民が多いことから、文化的にも独自の豊かな発酵を生み出しているが、観光客が足を踏み入れることはまずない。ギリシャ人にとっては、1944年に75人のコミュニストと多くの一般人がナチス軍によって処刑された場所として記憶されている。住宅地のなかにあるかつて絨毯の作業場だった建物が、現在は記念館として残されている。そこではコキニアで制作された、このネイバーフッドに残された過去とアイデンティをどのように結びつけていくことができるのかを探る映像作品が上映されていた。

ダグラス・ゴードンによるヨナス・メカスのフィルムは、ペディオン・アレオス公園の北のキプセリにある自治体が運営する屋外の映画館で上映される予定だったが、告知のないまま中止になっていた。午後に降った雨は午後遅くには止んだものの、映画を観ることができるようにするためには、座席を拭くなどの準備が必要になる。自治体にはその時間がなかったらしい。アテネには依然多くの屋外の映画館が存在するものの、その数は減っている。大昔はコーヒーショップやオープン・スペースで映画が上映されることが多かった。屋外の映画館には屋根がないため、その多くは夏の間だけ営業する。夏の間に1年分の映画をまとめて観て追いつくのがアテネの習わしなのだ。キプセリにはドイツで学んだ建築家たちが1930年代に建てたバウハウスの建物がいくつも残されている。1950年代には知識人が集まるアテネで最も洗練されたネイバーフッドとして裕福な人たちを集めたが、1980年代以降住民は郊外へと去り、その後にはやはり移民が移り住んだ。経済危機以降はスクワッターが占拠する建物も少なくない。不要なものを持ち寄る物々交換の市場も生まれた。それでもかつてのスピリットは今も残っていると、誇り高いキプセリの住民は主張する。

中心部から北に離れたアメリキス広場には、1928年に建設された建物を、今後誰も所有できず、何の目的にも利用されないまま残しておくというプロジェクトがあった。労働者が多く、歩道沿いに緑が整備されているチャーミングな住宅地だ。アテネの中心部から東のエレフテリア公園にあるアート・センターは、1967年から1974年まで続いた軍事政権の警察本部があった場所であり、反独裁及び民主的抵抗博物館は拘留と拷問施設として利用されていた。これらの場所をドクメンタの会場として利用することには住民からの反対もあり、議論をひきおこした。移民が多く住み、アテネに住む人たちも普段訪れることのない地区を案内するウォーク・ツアーもドクメンタの一部として多く組織された。ドクメンタとはこの都市を歩くこと、ドイツの視線を感じながら歩いて回ることだったのかもしれない。

EMSTで上映されたナイーム・モハイエメンの映像作品「トリポリ便欠航(Tripoli Cancelled)」は、2004年のアテネ・オリンピックに向けてエレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港がアテネの新国際空港として2001年にオープンすると同時に稼働を停止し、閉鎖することになった旧ヘレニコン空港内で全編撮影されている。1977年にモハイエメンの父親がデリー空港で両替の際にパスポートを忘れてそのままアテネに飛び、ヘレニコン空港内に9日間足止めされたことに着想を得ている。ムスリムの男が、人影のない放棄されたヘレニコン空港内のゲートで搭乗を待ち、滑走路でコーヒーをつくり、ターミナルの公衆電話から国番号88(バングラデシュ)と市外局番0に電話をかけて、ヘレニコン空港に今も放置されている機体へと乗り込む。構成にはラーナ・ダスグプタの「東京便欠航(Tokyo Cancelled)」を参照しているという。エンドロールの音楽にはCANが使われていた。

空港は治外法権区域に相当する。かつては治外法権区域だったヘレニコン空港は、今日では放棄された建物だ。ときおり航空会社の従業員が放置された機体を利用したトレーニングにやってくるだけだ。どこにでもありそうなコンクリートの構築物が、一時は治外法権区域と指定されて、ある人に入国を許可し、別の人には入国を拒否する権限を与えていた。2001年に閉鎖された後、ヘレニコン空港にはスクワッターが住み始め、ターミナル内に菜園を始めるなど、インフォーマルな利用が続いていた。2016年には多くの難民がテントを張ったものの、2017年5月にはやはり政府によって他の場所へと移動させられた。政府がリゾート地としてヘレニコン空港を再開発する案は大反対を招いている。グラスルーツの利用目的に空港の開放を求める声は強いものの、再利用の方針は定まっていない。

「トリポリ便欠航」は過去との会話を繰り返す。この作品がいくらか過剰に感傷的なのはそのためなのだろう。アテネのドクメンタの多くの作品と同じように、その視線は過去の重さに注がれていて、これから何ができるのか、何をすべきなのか、未来への言及はみあたらない。アテネでは地下鉄の駅の中に遺跡がある。遺跡を避けて駅が設計、建設されているためだ。アクロポリス博物館はいまも発掘作業中の遺跡の上に建っている。入口に向かうガラス張りの通路の下で続く発掘の作業を目にすることができる。どこを掘っても遺跡が出てくるのだから、空いていた土地を博物館のサイトに選んだと聞いている。アテネを一大観光地にしているのは、その歴史であり遺跡だが、その途方もない遺産がアテネに多くの観光客をもたらすと同時に、現在と折り合いをつけることを難しくしている。遺跡ではなく廃墟となった空港に放置された、飛び立つことのない747機のように、過去と現在の狭間でアテネは立ち往生したままだ。ターミナルに引き返すことはできず、人のいない管制塔から離陸の許可も得られない。アテネ便は欠航になっても、ミコノス島やサントリーニ島などの空港は機能し続けるだろう。裕福な観光客に人気の島々の空港は利益が大きく、なにしろそれらの島の空港を含むギリシャ国内の14空港は、トロイカの民営化推進とともにドイツ企業の所有下に移っているのだ。

アテネのドクメンタでは、政治や難民をテーマとして扱う作品は多く見かけたものの、深化し、拡大するグローバル経済にアプローチする作品はあまり目にすることがなかった。経済危機に難民、その理念からかけ離れてしまったEU。アテネがグローバル経済の中心にあるのは間違いない。会場施設の壁には「38(70?)百万ユーロを費やして資本主義の批判とは結構なことだね」とグラフィティが描かれていた。なるほど、アテネの都市そのものが何よりも雄弁に資本主義のありようを示しているとはいえる。グローバル資本主義から落ちこぼれることで、アテネはその先頭を走ることになったようにみえなくもない。

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