• パリの事件で思ったこと

    9月の終わりにパリに立ち寄った。 シャトレ-レ・アル駅から地上に出ると自動車が走っていないことに気づいて、その日が日曜日だったことを思い出した。日曜日のパリの中心部は歩行者と自転車のものになる。 ずいぶん久しぶりのパリでは、街角、地下鉄、そして書店でも当たり前のように英語を耳にした。「パリはどんどん変わっている」とパリに住む友人は言っていた。 パリはやっぱり素晴らしい。そのパリもニューヨークやロンドンと同じ途を選んだようだ。かけ足のパリで印象に残ったのはそのことだった。 1. 世界中の都市が集客に血道をあげている。ツーリズムのあり方も変わってきた。従来の観光とは異なる「オーセンティックな経験」を求める人が増えている。 ニューヨークでは建物に描かれたグラフィティをあえて消さないデベロパーがでてきている。「オーセンティックなニューヨーク」として価値が高まるという。 「ファイブ・ポインツ」や「ロウ・ライフ」といった、かつてのスラムや汚名を店名に掲げるハイエンドのレストランがオープンしている。同じ理由なのだろう。 「ファンシーに聞こえる」ようにと、以前からある地区に新しい名前をつけることも多い。サウス・ブロンクスは「SoBro (ソブロー)」といった具合だ。 不幸な過去やストリート・カルチャーは、キャッシュを生む知的財産になった。「セックス・アンド・ザ・シティ」はもちろん、いまやブルックリンも商品だ。 もはや企業や不動産だけではない。「都市そのもの」が投資の対象だ。 2. 都市が投資対象なら、都市の経営はCEOに任せよう。2002年にはニューヨーク市長にマイケル・ブルームバーグが就任し、2013年まで市のリーダーを務めた。 ブルームバーグ前市長が市の「企業化」を導いたともいわれるが、むしろビジネス化が加速するニューヨーク市がおのずとブルームバーグを選んだというべきだろう。 CEOの役割は都市の価値を最大化することだ。訪問客と投資を集めることが最大の使命になる。ニューヨークやロンドンをはじめ、多くの都市がこのゲームにとびこんでいる。 どの都市も同じゲームに集約するとすれば、都市間の競争激化はのがれようもない。 3. 知識経済へのシフトが、人的資本が集中する都市に優位性を与えている。世界をリードするのは中央政府ではなく都市だ。都市の自律性を求める声が強くなっている。 いくぶん加熱気味のアーバニズムの高まりは、都市がアセット・クラスになったことと無関係ではないだろう。都市部が堅調な経済を支えていることがそれを後押ししている。 米国経済は依然低迷しているが、ニューヨークは金融危機後に堅牢な回復を示している。パリは調子よくやっていても、中心地から10数キロ離れた郊外はほぼ壊れている。 パリとニューヨークの社会的な距離は、パリとその郊外との距離よりずっと近い。ニューヨーク市に住む人は (同州北部の) シラキュースよりパリの方が身近に感じるだろう。 成長は都市部に集中している。そして自己責任の名の下に、国は社会保障に背を向ける。 都市と国家の距離が開くにつれて、両者の裂け目に落ちていく人も少なくない。その下では社会の不安定化を企むテロ組織が待っているだろう。 4. 都市への通勤を前提としてつくられた郊外は、都心との間をとり結ぶ鉄道などのアクセスを必要とした。 同時に郊外は容易なアクセスがないことも重要だった。都心から貧しい人たちを寄せつけないためだ。都市と郊外は独自の距離感のうえに成り立っていた。 近年は郊外を捨てて都心を選ぶ人が増えている。パリ郊外のように都心から社会的に隔離された郊外もある。都市と郊外が切り離されつつあるようにもみえる。 都市内にはつねに格差があった。ニューヨークでは上級学位をもつ高所得者が増えると同時にホームレスも増えている。それでも都市内の貧しい人はそのゲームに帰属している。 ゲームの外に置き去りにされた人は、存在していることさえ思い出されることは少ない。ゲームの中と外との分断は、従来の経済格差や人種による住み分けとはちがってみえる。 5. パリ郊外の荒廃ぶりや、11月13日のテロ攻撃の「ルーツ」とされるブリュッセルのモレンビークの貧窮は、20年前には広く知られていながら放置されてきた。 パリ郊外では改善策として、高層住居棟を低層化することが提案されている。ベルギーの内務相は、テロ攻撃の後にモレンビークの「浄化」を求めることを表明した。 米国では20世紀後半に望ましくないコミュニティが一掃された。その数十年後に都市は富と同一視されるまで復活したが、そのゲームから閉め出された人たちは今も存在する。 グローバル化に逆行するように、あちこちでドアが閉じようとしている。手遅れになる前にゲートに駆け込むのは難民だけではない。