パスポート

2010年から続く経済危機に伴い、多くの企業がギリシャ市場から撤退した。マッキンゼー・アンド・カンパニーはアテネにあるオフィスの閉鎖を決定した企業のひとつだが、その際に同社は、ギリシャの従業員に対して、世界中にあるマッキンゼーの支社で働く選択肢を与えている。アテネのオフィスで働く従業員は、世界のマッキンゼー支社に応募し、ポジションの空きと応募者の適性が認められた場合には、ギリシャ以外の支社で働くことができた。

ギリシャ人の多くは英語を話す。英語以外にもフランス語など複数の外国語を操る人は珍しくない。マッキンゼーの社員であれば少なくとも英語はできるはずだし、アテネでもおそらく英語で仕事をしていたのだろう。多国籍企業のプラクティスは他の国でも通用する。サンパウロ支社に移籍しても、シンガポールのオフィスを選んでも、ビジネスの上で問題はないはずだ。

世界中の都市に拠点をもつ企業は、拠点間の転勤制度を設けていることが多い。欧州系金融機関のニュージャージーにあるオフィスで働いている人は、同じ金融機関の香港オフィスで今の仕事と同じポジションが空いていれば、そのポジションに応募することができる。企業にとっても全く新しい人を外から雇うより、その企業ですでに働いている人にポジションを引き継いでもらった方が都合がいいはずだ。

別の大陸へと引っ越し、着いた翌日には新しいオフィスで、以前と全く同じ端末に向かい、同じ英語で、それまでと同じプラクティスに取り組む人たちは世界中に少なくない。世界のどこへ行っても、同じルールで、同じゲームをプレイすることができる人たちにとっては、移動の障壁はおのずと低くなる。所属先や場所が変わっても、スキルとプラクティスはポータブルだ。スポーツ選手、とりわけサッカー選手は、モビリティが高いことで知られる。1995年のボスマン判決で、チーム内の外国人選手の上限が廃止されたことにより、自国以外の国でプレイする選手が大きく増えた欧州のリーグは、壮大な出稼ぎのスキームへと発達した。

多国籍企業では、リーダーシップを必要とするポジションに昇進する前には、外国で働く経験を求めるところが多い。高度なスキルを必要としない仕事には現地で人を採用し、高いスキルを必要とする仕事やシニア・マネジャーのポジションには、同じ会社の国外のオフィスからやってくる。

「浮遊層」とでもいうべき世界を転々とする人たちは、もはや珍しい存在とはいえない。ニューヨークも浮遊層の出入りが激しい都市のひとつだ。多くの人が数年ここに住み、またどこか別の国へと去ってゆく。いい仕事があればそこへ行く。「いい仕事」は多くの報酬を意味することが多く、条件が良ければマドリードでもワシントンDCでもいい。金融のキャリアを求める者なら、望ましいポジションがあれば、チューリヒでも上海でも引っ越してゆくし、弁護士や建築家もチャンスが大きい都市へと移動する。

仕事はどの都市でも概ね変わりはしないし、世界のどこへ行っても現地の言語を習得する必要もない。オフィスの中はもちろん、英語圏の国ではなくとも、都市内に限っていえば、どこもほぼ英語圏になりつつある。むしろ英語に限らず、浮遊層の受け入れ体制が整備されていない都市は、世界の都市間競争から落ちこぼれてゆくことになる。なにしろ世界のグローバル都市は血眼で浮遊層の獲得に勤しんでいて、税制などの優遇策を競うように打ち出しているのだ。

2018年7月にクリスティアーノ・ロナウドのユベントスへの移籍が発表されたが、イタリアが一定以上の高所得者への累進課税を中止し、低率で固定する税制改革を導入したことと無関係と考えるのはむしろ不自然いえる。とりわけスペインでの税問題が泥沼化していたロナウドにとっては、渡りに船というべきところだ。2004年にスペインで導入された、非居住者の税率を24%で固定する通称「ベッカム法」など、税制はサッカー選手のモビリティと移動パターンの形成に大きく影響していることがわかっている。

世界人口のおよそ3%に相当する人たちが、出生国とは異なる国で暮らしている。その比率は1960年以降ほぼ変わってはいないものの、移動している人はスキルのある人たちに大きく偏っているのが現状だ。OECD諸国内に住む、高いスキルを備えた外国人の数は、1990年から2010年までの間に130%近く増加している一方で、スキルを備えていない人の移動は低迷している。そして高いスキルをもつ人たちが向かう先の70%はアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアが占めている。

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「ビリオネアズ・ロウ」として知られるマンハッタンの57丁目には、One57や432パーク、そして近く売り出される予定の111 W.57thなど、超高層コンドミニアム (スーパートール) が並んでいる。1億ドルを超える金額で取引された物件もあるスーパー・ラグジュアリーの住居は、アメリカ国外から買う人が多く、サウジアラビアの富豪やカタールの外交官、そしてヘッジファンドのマネジャーなどが購入する。

57丁目の容積率は周辺と比べて高く設定されていて、そして実際に利用されている容積率の比率が非常に低いことが高層を可能にしている。さらに周辺にはランドマークに指定された低層の建築物が多いため、空中権を集めやすい環境が整っているというわけだ。景観の保存を目的として指定されたランドマークが、その制度の意図とは裏腹に、周辺に超高層をもたらしている皮肉な結果に、保存主義者たちはずいぶん落胆したことだろう。

マンハッタンの眺めはそれ自体がひとつのアセット・クラスとされる。資本の住処としてこれ以上ふさわしい場所はない。世界各所を転々とするスーパー浮遊層であるオーナーたちがその部屋で過ごす時間は限られていて、スーパー・ラグジュアリーの物件に電気が灯るのは一年のうち数週間だけという部屋も少なくない。資本家とは資本の人格化のことであるのだから、資本の場所さえあれば問題はないのだ。同じ現象はロンドンでも起きている。

57丁目に次々と立ち上がる超高層コンドミニアムの市況は、アメリカやニューヨークの経済と共有するところはあまりない。ビリオネアが買うコンドミニアムの価格は、強いていえば、プライベート・ジェットの市場に連動する傾向にある。東57丁目周辺にはヘッジファンドが多いのも偶然ではないのだろう。ローカルなネイバーフッドの中に、グローバルな飛び地が存在している。都市内のネイバーフッドが、線渠を通じてグローバルな世界と直接結びついていることになるが、その線渠はしばしばマネーが媒介する。

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こうした浮遊層の間では、二つ目、三つ目の市民権を手に入れる人たちが増えている。家族や資産の将来を考えるなら、パスポートは一つで満足してはいけない。30百万ドル以上の投資可能資産をもつ、上級富裕層とでもいう人たちの34%はすでに二つ目のパスポートをもっているといわれる。

スペイン、ポルトガル、ギリシャ、マルタ、ブルガリア、ハンガリーなど、多くの国が投資を通じて居住権や市民権を取得できるプログラムを提供している。一定金額以上の投資によっては、即座に市民権を得ることができる国もある。マルタは1百万ユーロで市民権を取得することができるため、最もお手軽なEUの市民権として一部に人気がある。一方オーストリアは10百万ユーロと少々お高いが、その価値はあると考え、同国のパスポート取得を求める人もいる。所得税や相続税がない国もある。税の目的でパスポートを買うならドミニカはどうだろう。おまけにかなりのお手頃価格ときている。急いでいるならキプロス。2百万ユーロと引き換えに世界最速の90日で市民権のスピード取得が可能だ。もっとも今年の8月以降は、市民権取得に必要な時間が6ヶ月へと変更になるというから、いますぐ申請した方がいい。

申請手続きが不安なら、コンサルティング会社が市民権や居住権の取得を手伝ってくれる。なにしろ二つ目のパスポートは慎重に選ぶ必要がある。どの国でもいいわけではない。世界のパスポートにはそれぞれ異なる価値があり、その価値はしばしば変動する。ビザを取得することなく入国できる国が多いパスポートほど、グローバルなモビリティを保証することになり、その価値が高いとされる。パスポートのヒエラルキーを示す、各国のパスポート価値ランキングも毎年数社によって発表されている。パスポート選びには、モビリティのほかに、投資、安全性、ヘルスケア、教育、税金、引退、相続、事業継承などが考慮されることが多い。

新しい居住権や市民権を取得したからといって、その国に住む必要はないし、自身をその国の一部と考える必要もない。いわば「経済市民」というわけだ。市民権取得を手伝うアートン・キャピタルによれば、二つ目の市民権はグローバル市民に自由と力を与えることになる。生まれる国は選ぶことができない。不幸にも悪いパスポートの国に生まれたら、もっといいパスポートを買えばいい。リスクを軽減するために投資ポートフォリオに多様化が必要なように、パスポートのポートフォリオにも多様化が必要なのだ。二つ目の市民権を得るための投資額は、世界で20億ドル以上に達しているといわれる。

2016年6月にイギリスがEU離脱を決定した後に、EU国のパスポート取得を急ぐイギリス人が増えたと伝えられている。イギリス人であっても親の出生地や国籍によっては、他国の市民権を取得することが比較的容易になることがある。EUパスポートのモビリティを失うことを恐れる人たちが第二のパスポートを手に入れようと奔走しているが、実際には、二つ目のパスポートを求める動きはEU離脱の決定以前から起きていた。不確実性を生き抜くには、私たちひとりひとりが、自分や家族のためにどうすればいいのかを考えて行動する必要がある。そのためにはまずはモビリティの確保が必要だ。自分の将来を国に委ねて漫然としてなどいられない。国がどんな状況になろうとも、とにかく自分と家族は生き残らなければいけないのだ。

アメリカ人の中には、自国の市民権を放棄する人が増えている。2015年には5.4千人のアメリカ人が市民権を放棄し、その数は2010年から3倍に増えている。多くの国が居住地をもとに課税するのに対して、アメリカは市民権にもとづき課税する。そのため7百万人いるとされる国外に住むアメリカ人は、アメリカに住んでいなくても納税の義務がある。ニューヨーク市で生まれ、イギリスとアメリカの二重国籍を有していたイギリス前外相のボリス・ジョンソンは 、2015年にアメリカの市民権を放棄した人のひとりだった。課税負担が理由だといわれている。

2018年5月にイギリスのヘンリー王子と結婚したメーガン・マークルは、結婚後も王子とその財産を共有しないのではないかと囁かれている。アメリカ人のマークルに資産が譲渡されるとアメリカで課税対象になるのに加えて、マークルが30万ドル以上の資産を有しているとすれば (その可能性は高い)、アメリカ合衆国内国歳入庁に資産の詳細を報告 (様式8938) する義務が生じることになり、王室からの資産があった場合、これまで公表されていなかった王室の資産が明るみに出るおそれがある。マークルがアメリカの市民権を放棄し、イギリスの市民権を取得するのはひとつのやり方だが、イギリスの市民権取得には数年が必要になる。

市民権や居住権はマネーと裏表一体の関係にある。それは国家にとっても同じこと。キプロスの投資による市民権取得プログラムは2002年から存在するものの、2013年以前は少なくとも10百万ユーロが必要だったそのプログラムは、同国が金融危機の打撃を受けた後、2013年には3百万ユーロに、2016年にはさらに2百万ユーロへと変更されている。パスポートは収支をバランスさせるための手段でもある。

人のグローバルな移動は、浮遊層だけのものとは限らない。世界の歴史を少しでも振り返ってみれば、多くの人たちがほかの国や大陸へと移動することを余儀なくされる不幸な事件は繰り返し起きている。アラブの春の後には、中東から市民権を買う需要が高まった。市民権を求めるのは戦争が生み出す難民だけではない。1997年の香港の返還前に、多くの人がカナダなどへと移住したことを思い出そう。気候変動や温暖化によって、今後数千万人の人が将来住む場所を失うことになるともいわれている。いつどこで誰が流民になってもおかしくはないのだ。

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着陸した機体を後にして、パスポートを手に入国審査へと向かうと、そこには長い列が待っている。ロンドンのヒースロー空港はとりわけ入国審査の混雑ぶりで知られ、2時間待ちは当たり前、ときにはその待ち時間は2時間半にも及ぶことがある。そのヒースロー空港でも、長い列で待つことなく、直ちに入国審査を受けられるレーンが存在する。ビジネスとファースト・クラスの乗客、それにそのターミナルの航空会社で一定以上のステータスをもつエリート会員は、審査を待つ者が誰もいないファースト・レーンへと招かれて、すぐさま審査を受け、入国することができる。

3万数千フィートの上空で長い時間を過ごした後に、さらに2時間も列に並んで待つことを回避できるなら、それだけでもプレミアムの席で飛ぶ価値はあるというものだ。エリート会員でない者は、世界中からやってきたその他大勢の人たちとともに、長い列を辛抱強く待つしかない。2時間我慢して、その後にドアが開いたならまだ幸運と考えよう。ドアが開くことのない人もたくさんいるのだ。

アメリカでは、オバマケアや子供の健康保険など、アメリカ国内の公的補助を過去に利用したことがある外国人の世帯には、永住権や市民権を取得することができなくなるよう働きかける動きがある。経済的に完全に自足していて、公的補助を一切利用しないのならばここに住んでもいい、そういうことなのだろう。いまやその国で生まれ育った国民であっても社会保障を十分に得られず、もはや市民権と基本的な社会保障がセットではなくなりつつあることを考えれば、それも当然のことなのかもしれない。その意味では、公的補助を必要としないであろう裕福な外国人のお客様への手厚いおもてなしも理に適っているというものだ。

市民権は主権国家への帰属というよりも、航空会社のマイレージ・クラブのようになりつつある。各社のマイレージ特典を比較するのと同じ手つきで各国のパスポートの利点を調べあげ、自分のニーズに合う国を選ぶ。ファースト・クラスやビジネス・クラスで頻繁に長距離のフライトを飛び続けるエリート会員には様々な特典がついてくる。なにしろ高い航空券を何度も買う上客なのだから当然だ。会員の利点はJFK空港でもリスボンの空港でも、国は問わない。そのステータスは世界中の空港で通用し、パートナーの航空会社のフライトにも利用できるため、エリート会員は世界のどの空港でもファースト・レーンに進むことができる。そしてマイルは買うこともできる。

クラブのメンバーが行き来する、国家を横断する飛び地があちこちに生まれている。そのメンバーシップはほぼ世界中で通用し、会員は国境の制約を受けることが少ない。ポピュリズムや反外国人感情、人種差別が世界を席巻しているといわれるものの、奇妙にもこうした会員はその矛先となる移民として括られることはなく、排外主義の外に存在しているかのようにみえる。

グローバル化によって、明瞭に線引きされたボーダーと、それによって規定される固定した領土にもとづく同一の文化を共有する国民というモデルが侵食されつつあるといわれる。ボーダーはなくなってはいない。ボーダーは新しいところにひき直されている。国と国の間のボーダーよりも、グローバル・クラブの会員と非会員の間を分けて走るボーダーによる分断の方が顕著になりつつある。世界はいよいよクラブ化している。ボーダーレス・ワールドといえる世界があるとすれば、それは資本と情報、そしてそのクラブの会員向けのもの。世の中の多くの人にとっては、移動は依然厳しく制限されている。

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パスポートが何なのかを知っている人は少ない。パスポートと搭乗券を手にして空港のゲートに向かえば、いつでもどこにでも行くことができる、少なくとも一時的には。そう考えている人もいるかもしれない。パスポートが何のことなのかがわかるのは、自由に行き来することができなくなった時だ。

ビリオネアが往来する57丁目の一本北、58丁目にあるホテル兼アパートのakaセントラル・パークは、数年前までウィンダム・ホテルとして営業していた。1929年のオープンから一世紀近く続いたウィンダム・ホテルには、1941年にイギリスを逃れてやってきたシュテファン・ツヴァイクが滞在している。ウィーン育ちの物書きにとって8月のニューヨークの暑さは過酷だったに違いない、ツヴァイクは早々にマンハッタンのホテルを引きあげて、ニューヨーク州北部のオッシニングのラマポ通りに家を借り、そこで「昨日の世界」の最初の草稿を書いている。

1881年に帝国の首都の裕福な家庭に生まれたツヴァイクが旅した世界の記録には、彼が育った19世紀終わりのコスモポリタンなウィーンの圧倒的な存在感、学生として過ごし、発展しつつあったものの未だ殺風景でミュンヘンにもドレスデンにも芸術的に劣っていた過渡期のベルリン、そしてまだ革命の余韻が漂うパリの街路が記されている。どこであれ訪れた都市に着いた日には、誰とも会う予定は入れず、そこに着いたことさえ誰にも知らせずに、まずは一人でその都市を歩くことを楽しんだツヴァイクは、自分のことを知っている人も、自分を待っている人もいない都市を一人で思いのままに歩き回ることの心地よさを心得ていたのだろう。なにしろツヴァイクが欧州の都市を歩いていた頃には、なによりも都市こそが文化の中心だった。

あらゆる人が集まり、世界の出来事について意見を交換し、常に新たなことを聞き知る場所だったウィーンのカフェに、各国から商人やスパイなど雑多な人たちが入り混じり、国際都市となった第一次世界大戦時のチューリヒ。書物よりも人びとの交流から多くを学んだというツヴァイクは、実際に多くの場所に出向き、様々な人たちから多くを得ている。彼が出会ったのは、ロマン・ロランやマクシム・ゴーリキーのような著名人だけでなく、彼の作品の題材ともなるスリや古美術商や女たちを、彼に特有のどこか距離のある視線で観察している。

都市の最良の部分を存分に楽しみながら歩きつくし、仕事のためにはザルツブルクに、イギリス滞在時にはバースへと、大都市を避けてもっぱらひきこもる。「昨日の世界」にとりくむためにマンハッタンの喧騒を後にして向かったオッシニングは、ウィーンに対してのザルツブルク、ロンドンに対してのバースというべきものなのかもしれない。つけ加えるなら、ミュンヘン、パリ、ヴェネツィアなど、欧州の各都市へと旅立つための利便性からザルツブルクに家を買ったというのは、いかにも彼らしい選択だったといえる。

ツヴァイクが最初にニューヨークを訪れたのは1911年、30歳の時のこと。その時彼は、パスポートをもたずにアメリカを訪れている。1914年以前にはパスポートなどというものは目にしたことも聞いたこともなく、アメリカにもパスポートなしで渡航し、それが当たり前だった。ニューヨークにはまだエンパイア・ステート・ビルディングも、私たちが知っているタイムズ・スクエアも、夜を徹する眩い光もなかったものの、ツヴァイクは身につけた7ドル以外何ももっていない移民として自分を想像し、就職斡旋業者に登録してみたところ、短期間にいくつもの仕事のオファーを得ることに成功した。このことがアメリカを限りない可能性の国と考えさせるようになり、ひときわ強い印象を彼に与えたのも無理はない。どこの誰なのかもわからない彼に、出身地を尋ねることもなく仕事を与えたことに、ツヴァイクは大きな感銘を受けている。もちろんパスポートを見せろなどと言う者は誰もいなかった。ニューヨークで得た所有しないことの自由、後年の彼のあり方を特徴づけている。

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「昨日の世界」を自伝ではなく、彼の世代すべての記録であると主張するツヴァイクは、事実、時代を画する多くの事件に居合わせ、すれ違っている。未来は今日よりも良くなるのだという疑いようのなかった進歩主義の世界が崩壊し、平和的統合という理念が滅び、自壊する欧州を目の当たりにした。スイスのボーダーを超えてすぐのブックス駅での交戦国と中立国との滑稽なまでの格差や、列車の中に認めたオーストリア最後の皇帝の失脚、貨幣価値が急激に下落しそれに翻弄される人びとの生活を目撃した。

二つの大戦の間に訪れた奇妙な凪の季節には、欧州はもちろんアメリカやインドまで気ままに旅ができるし、好きな都市を思うままに歩くことができる。再び波風が立ち始め、情勢が変われば、本人の意志とは関係なく旅に出ることを強いられる。旅人が流民に転じるのに多くのことを必要とはしない。

1933年、欧州に不穏な影が拡がり始めたその小さな緊張は、オーストリアが変わり始める前に、彼にザルツブルクを離れさせ、イギリスへと向かわせる。その後イギリスから何度か一時的にオーストリアへ戻りはしたものの、1937年11月のある朝にオーストリアの終わりの始まりを直観した彼は、最後になることを覚悟してすぐさまウィーンへ飛んでいる。誰も気にもかけない些細なことを深刻に捉え、世界が変わりゆくことを嗅ぎ分けて、暗い時代の到来に先んじて移動したのは、フリークエント・トラヴェラーに備わった資質だったと考えるべきなのか。今日の世界でも、空港に着くたびに入国に必要な手続きが変わっていると、その変更を必要とさせる何があったのか、誰でもその背後を考えてみるはずだ。

旅することは、第一次世界大戦後に一変した。ツヴァイクによれば、旅はまず許可や承認を必要とすることになり、旅行者は、犯罪者にそうするように、写真や指紋を取られ、ありとあらゆる類の証明書と幾度もの署名を求められるようになった。あらゆることが権利ではなく、恩寵として請うものになり、人は訊問され、登録され、番号をつけられ、スタンプを打たれる。はたしてパスポートが人びとに自由を与えるものなのか、それとも人びとを管理するために導入されたものなのかはさておき、パスポートがなければ人間としてさえ扱われることのない世界へと一変したというのが旅人としてのツヴァイクの記録だ。

1939年のナチの侵攻に続くオーストリアの崩壊によって、イギリスに滞在していたツヴァイクはたちまちパスポートを失い難民へと変わった。その数日後にはイギリスがドイツに宣戦布告したことで、今度は外国人から敵国人へと身分が変わる。彼が描いた痴書メンデルのように、自分が与り知らないところで自分の身分が変わり、昨日まで当たり前にしていたことが今日できなくなる。自らの職業について、「元作家、現在はビザの専門家」と漏らすようになったツヴァイクは、「昨日の世界」にとりくむニューヨークへと向かうことになる。

ビブリオフィリアにふさわしく、15歳の時から自筆原稿を集め始め、著作が売れた頃には片っ端から買い求めたことで、ゲーテやベートーベンからスタンダールやドストエフスキーのものまで膨大なコレクションを築いた (ただし手紙や日記の類は一貫してコレクションから除外した) ツヴァイクだが、流民としてそれを手放さざるを得なかった一方で、その創作のプロセスとして原稿からとにかく多くの部分をとり去ってゆき、短くすることで完成度を高めていった彼にはふさわしいことだったのかもしれない。パスポートがないからこそコスモポリタンであり、所有しないことが自由だと考えた彼が、自身の身分を証明する書類の類を多く持ち歩かなければいけなくなればなるほど自分自身ではなくなるように感じたというのも無理はない。

ここにいることができなくなったらどこへ行こう。今日と同じような日が明日もやってくるとは考えられなくなった時にはもう遅い。この不本意なビザの専門家にとっておそらく最も皮肉なことは、一世紀も前の旅の記録を、歴史の書物としてではなく、来たるべき時の手引きとしてふたたびとり出す必要があるかもしれないらしいということだ。

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