「不動産はゲイが多いところを買え」

「ボタニカ (Botanica)」は、マンハッタンのハウストン通りにあるバーだ。夕方から朝方まで、様々な人が行き来する。

内装などこれといって特筆すべきものはない。むしろ、どこかで拾ってきたような、半ば壊れかかったソファやイスが雑然と並んでいる。

おそらく観光ガイドブックに載ることはないこのバーが、かつて「ニッティング・ファクトリー (Knitting Factory)」だったことを知る人は今では少ない。

「ダウンタウンミュージック」を育てたニッティング・ファクトリー

マイケル・ドーフは、地元のバンドのプロモーションのため、ウィスコンシン州からニューヨークを訪れていた。いくつものクラブに出演の交渉をしたが、相手にしてくれない。

途方に暮れたドーフが思いついた解決法は、そのバンドが演奏できる場所を自分で始めることだった。

こうして、ソーホー近くの東ハウストン通りに、ニッティング・ファクトリーはオープンした。1987年のことだ。

やがて、他に演奏する場所がないミュージシャンが集まるようになる。ジョン・ゾーン、ビル・フリーゼル、アート・リンゼイなど、今日ではニューヨークの音楽シーンの「重鎮」とも言えるミュージシャンが頻繁に演奏するようになった。

ウィスコンシン州出身のドーフは、実はニューヨークの実験音楽やアヴァンギャルドジャズなど聞いたこともなかったという。

ニッティング・ファクトリーは、図らずも前衛音楽のメッカへと成長したのだ。

独自のレコードレーベルを手がけるようになり、欧州へのツアーも行った。日本でもコアな音楽ファンの間で、ニッティング・ファクトリーはよく知られた存在だ。

アーチストやゲイが住むと開発が進む

社会学者のリチャード・フロリダは、新しいアイデアやイノベーションを生み出すのは、豊かな才能を備えた人など、彼が提唱する「クリエイティブ・クラス」が多く住むところだという。

そうした人たちは、寛容度が高く、オープンな地域を好む。どうやって生計を立てているのかわからないようないわゆる「ボヘミアン」、アーチスト、そしてゲイなどが多くたむろするところだ。

フロリダは、ボヘミアンやゲイの多い地域と住居価格の間に、高い相関関係があることを示した。アーチストやゲイが住み始めると、そこは「ヒップ」なエリアとなり、家賃や不動産価格が高騰するというわけだ。

古くはソーホー、最近ではブルックリンのウィリアムズバーグがそのいい例だろう。

「ゲイの多いところの不動産を買えばいいんだな」。

フロリダの本を読んだある不動産業界の人は、彼にそう言ったそうだ。

そうした地域は、不動産ビジネスにとっては投資の好対象だ。ボヘミアンなどの集中度を表す「ボヘミアン-ゲイ指数」は、不動産市場の先行指標ともみなされている。

だが、話しはそこでは終わらない。

開発が進むと、家賃はアーチストが払える水準を超えて高騰する。

自分たちが住み始めたまさにそのことによって、アーチストたちは追い出されることになる。そして、高所得者向けのアパートや観光客向けのレストランがとってかわる。

ニッティング・ファクトリーの変遷

1994年に、ニッティング・ファクトリーは、ハウストン通りからトライベッカへと場所を移した。

1990年代前半のトライベッカは、開発が本格化していなかった。

当時、私はトライベッカのピザ屋に夜間立ち寄ったことがある。他の店と共用のトイレに行こうとしたところ、そこの従業員に「十分気をつけろよ」と言われた。まだそんな時代だ。

トライベッカのニッティング・ファクトリーには、地下を含めて数階にわたり、いくつもの演奏スペースがあった。

ドーフの下でマネジャーを務めていた知人は、「ニューヨークとはいえ、アヴァンギャルドジャズなんて聞く人が一体どれだけいるのか」と言っていた。

実験的な音楽にはいささか不釣合いな、巨大なスペースだったと言えるだろう。

演奏者とのトラブルが多発するようになったのもこの頃だ。その結果、ゾーンなどの演奏者がニッティング・ファクトリーを離れた。

2004年には、ドーフはCEOの座を降り、ニッティング・ファクトリーは、ポピュラー路線の音楽が中心になった。そして、2008年には、ブルックリンのウィリアムズバーグに移転した。

トニックからザ・ストーンへ

1998年には、ニッティング・ファクトリーを離れたゾーンが中心となって、「トニック (Tonic)」がオープンした。

ロワーイーストサイドのノーフォーク通りにあるワイン貯蔵庫を改造した演奏スペースだ。

ニッティング・ファクトリーがメインストリームの音楽に近づいたこともあり、トニックはニューヨークの実験音楽の中心となった。私も頻繁に足を運んだ。

オノ・ヨーコからボアダムズまで、世界中から様々なアーチストがそのステージに立った。ゾーンの誕生月の9月には毎晩ゾーンが出演し、日替わりで異なるミュージシャンとセッションを続けるのだった。

そのトニックも長く続くことはなかった。高騰する家賃を払うことができなくなり、2007年に閉鎖を余儀なくされた。

トニックのオープン当初、何もなかったノーフォーク通りは、閉鎖される頃には、派手なバーが立ち並び、明け方まで多くの人々であふれるまでに様変わりした。

トニックの先行きが怪しくなった頃、ゾーンが中心となり、今度は「ザ・ストーン (The Stone)」が2005年にオープンした。

見つけられることを拒むように、控えめなサインが入口のドアに記されただけの小さなスペースは、アベニューCの角にある。ハウストン通りをずっと東にはずれた場所だ。

かつては危険だと言われたこのエリアも、最近では次々と新しくバーがオープンしている。

多くの人が流れ込んでくるにつれて、ザ・ストーンは再び場所を変えなければならなくなるのだろうか。

「その次のもの」を生み出す人たち

2007年4月にトニックが閉鎖する際には、多くの音楽ファンが抗議のデモに参加した

Photo by williamaveryhudson

トニックがあった建物の隣に、現在は高級コンドミニアムが立っている。コンドミニアムの建設が決まった頃から、トニック立ち退きへの圧力が高まったという噂が流れた。

ニューヨークを拠点として活動するマーク・リボーは、「トニックの閉鎖は例外ではない。同じことがニューヨークのあちこちで起こっていている」と言い、シティホールの前で抗議した。

実験的な音楽は、誰もが聞くものではない。マジソンスクエアガーデンで大々的にコンサートを行うミュージシャンとは異なり、ゾーンやリボーでさえ、一般的には「無名」の人だろう。しかし、新しいものをつくり出してきたのは、そういう人たちだ。

今や「ホットなエリア」のロワーイーストサイドは、ニューヨークに遊びに来た人に、彼らが想像するニューヨークを楽しんでもらうにはいい場所だ。

それはそれで悪いことではない。観光はニューヨークの主要産業だ。問題は、そうした街から、「その次のもの」が生まれてこないことだ。

「ディズニー化」と揶揄されるニューヨークの開発指向は加速する一方のようにみえる。その結果、特定の「クリエイティブ・クラス」が表現する場所を失っている。

短期的にビジネスとしての価値が見出しづらい音楽が追い出されることで困るのは、ニューヨーク自身のはずだ。

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3 Responses to 「不動産はゲイが多いところを買え」

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