街を歩くように、ツイッターの喧騒を歩こう

ツイッターはストリート、フェイスブックはモールのようだ」—。

SF作家のウィリアム・ギブスンは、ツイッターの活発なユーザーだ。連日数多くのツイートを続ける彼は、「ツイッターでは、あらゆる人に出くわすことになる」と言う。ちょうど、街の通りを歩くように。

人々が接触を繰り返す「歩道のバレエ」

街の通りは、目的地にたどり着くための手段ではない。人々が多種多様な接触を交わす場所だ。

都市における歩道の役割を強調したのは、ジェーン・ジェイコブスだ。

大学に通うことのなかったジェイコブスは、住んでいたマンハッタンのハドソン通りを行き交う人々を観察することで、街がどのように機能しているかを学んだ。

1961年、ジェイコブスは、『アメリカ大都市の死と生』で、従来の都市計画理論に対して、真っ向から挑戦状を叩きつける。

デリカテッセンやカフェ、バー、コインランドリー—。不特定多数の人々が行き交うこうした場所では、日常的に「情報交換」がとり交わされる。

その一つ一つは、とくに目的すらない、気まぐれな接触だ。顔見知りと言葉少なく握手を交わし、足早に通り過ぎることもあれば、思わぬ相手とカフェで話しこむこともあるだろう。

都市のダイナミックな秩序は、こうしたとるに足らない接触の繰り返しから立ち現れてくる。そのことにジェイコブスは気づいた。

「まともな住居がないから、歩道に人がたむろする。その結果、街の治安は悪化する」。そう考える都市計画家は、根本的に間違っている。

都市が繁栄し、魅力的であるためには、歩道のように、雑多で「パブリックな空間」こそが必要だ。多くの人が表に出ることで、歩道は安全になる。ジェイコブスはそう考えた。

多様なものが混在する歩道で、アドホックな接触を繰り返す人々。ジェイコブスは、それを「歩道のバレエ」と呼んだ。

高層ビルが都市ではない。ビルの合間をぬって走る歩道にこそ、都市は生きている。

ツイッターは「パブリック」なストリート

ギブスンがツイッターを「ストリート」と言うとき、それはジェイコブスの「歩道」と読みかえていい。

ツイッターでは、断片的な情報が、脈絡もなく流れていく。それ自体とるに足らない「つぶやき」が、足早に通り過ぎていくだけだ。

行き交う人も多種多様だ。お気に入りのアーチストを見かけた後には、友人から今日のランチの話を聞かされるだろう。

ツイートの流れは、やり過ごすこともできるし、気がむけば、偶然通りかかった人とおしゃべりをすることもある。

昨年のサンクスギビングの午後、ぼんやりツイッターを眺めていた私は、社会学者のリチャード・フロリダのツイートに目がとまった。

フロリダは、その日のメイシーズのパレードで話題を集めた、村上隆のバルーンの写真を探していた

村上自身がリツイートしたバルーンの写真を見ていた私は、その写真をフロリダ宛にリツイートしたところ、数秒後にはフロリダから、「Fantastic Murakami balloon pic – The power of twitter」というツイートが流れてきた。

私はフロリダの知り合いではない。たまたまそのときすれ違って、探し物をしていた彼と、少し言葉を交わしただけだ。

すれ違いざまの一瞬のおしゃべりもあれば、気まぐれなツイートが、突如大きな波のうねりのように広がっていくこともある。街行く人を次々と介して、うわさ話がまたたく間に広がっていく光景と似ている。

「偶発性」と「気まぐれな連携」が大きな役割を果たすツイッターでは、ささやかな接触の連鎖から、大小の「うねり」が立ち現れては消えて行く。

こうした「うねり」は、あらかじめ予想したり、意図してつくり出すことはほぼ不可能だ。それは、結果として生じるものでしかない。

フェイスブックは郊外型のモール

ストリートが都市に固有の場所であるとすれば、ギブスンがフェイスブックにたとえたモールは、郊外に特有のモデルだ。

垣根で仕切られた敷地の一軒家に住み、車で移動する郊外は、分断された「プライベートな空間」だ。そこに、「歩道のバレエ」は起こりえない。

今日、地球上の人間の12人に1人がフェイスブックに登録している。それでも、ギブスンは、フェイスブックを面白いと思ったことがないという。フェイスブックの環境が、トップダウンで媒介されているというのが理由だ。

ツイッターには、ごく限られた機能しかない。シンプルだからこそ、ユーザー自身が工夫して、いろいろな使い方を考えることができる。ツイートの際の様々なルールは、ユーザーの試行錯誤から自生したものだ。

街の歩道で何をするかは、行き交う人々がその都度決めることだ。物理的には、歩道は、「単なる空間」でしかない。ツイッターも140字の「単なる空間」だ。

モールには、数多くの商品が並び、買い物客を楽しませてくれる。しかし、「単なる空間」がもたらす自発性や偶発性がそこにはない。

ギブスンは、奇妙に整然としたモールと都市の喧騒に、フェイスブックとツイッターの違いを見た。

評価が高まるジェイコブスの街を見る目

アメリカ大都市の死と生』が世に問われてから半世紀が経過した。ジェイコブスが街の観察を続けたグレニッジ・ヴィレッジも変わった。

彼女が同書の原稿をしたためた、ハドソン通り555番地の一階には、菓子屋があった。ジェイコブスのエピソードにしばしば登場するあの菓子屋は、現在はキッチン用品の専門店になっている。

街は変化しても、ジェイコブスの街を見る目は色褪せるどころか、近年その評価が一段と高まっている。

「ウォーカブル・シティ (walkable city) 」—。米国では、車中心の街から、歩くことを重視した街へと転換する動きが注目されている。そこで考慮されているのは、環境や安全だけではない。新しいアイデアが生まれるのは、多種多様な人が行き交うストリートだというジェイコブスの考えが実践されている。

当時はそうした概念すら存在しなかったものの、ジェイコブスは都市が「創発」であることを独自の言葉で述べていた。彼女の街に関する指摘は、イノベーション研究の文脈で読み直してみることも可能だろう。

ジェイコブスの洞察は、都市のエコシステム全般にわたる幅広いものだ。しかし、彼女の議論を理解するために、机に向かって分厚い本をひもとく必要はない。彼女自身がそうしたように、まずは表にとび出して、街を歩いてみればいい。そこでは、驚くほど様々な人と行き交うだろう。

ギブスンならば、ツイッターを歩いた方がいいと言うかもしれないが。

3 responses to “街を歩くように、ツイッターの喧騒を歩こう”

  1. […] 「歩道のバレエ」としてのストリートを「発見」したのはジェイコブスだ。 […]

  2. […] ジェイコブスが「バレエ」に喩えた歩道は、垂直には実現できないものだろうか。 […]

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