教材の役割

友人のK氏は、コロンビア大学の大学院で約20年教鞭をとる教授だ。

彼の授業は、彼自身によるレクチャーと、生徒によるプレゼンテーション、そしてそれについてのディスカッションにより構成されている。米国の大学院のクラスでは一般的なスタイルだ。

生徒に自分で考えることを求めるK氏は、プレゼンテーションのフォーマット、期末の論文のテーマなどを予め与えることはしない。方法は問わないから、とにかく自分で考えたことを発表しろという考えだ。

そのK氏が、数年前に授業で使う教材を指定し始めた。それまでは、彼が準備したシラバスに、生徒が読む文献のリストらしきものはほとんど存在しなかった。プレゼンテーションする学生が、自ら考えて、調べるべきだという意図だ。

しかし、K氏はその方針を変更し、授業で触れるトピックについて、指定した特定の文献を読むことを求めるようになった。

K氏によると、学生によるプレゼンテーションのクオリティが、ある時期から著しく低下し始めたという。ウェブで検索し、そこで得た情報を吟味することなく貼り合わせただけのプレゼンテーションが目に余るようになった。

情報の正確性(事実関係)から、視点の整合性、一貫性に至るまで、ごく基本的なレベルにおいて問題の多いプレゼンテーションが増え、それをもとにディスカッションをすることが不可能になってしまったという。

こうして、K氏は生徒が読む文献を指定することになった。

教材は必ずしも「正しい」わけではなく、そこに展開されている議論を習得するのが授業の目的ではない。批判的に検討していく一つの材料を提供するのが教材の役割だ。

生徒に求められているのは、ある文献をそれぞれがどう「読む」のかである。そして、それについてディスカッションする場が授業であるはずだ。

共通の材料をそれぞれが予め読んだうえで授業に参加することで、ディスカッションが可能になる。特定の視点から整理したうえで包括的に書かれた教材には、たたき台としての一定の役割がある。

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